冷凍庫の奥に、一本だけ残しておいたアイスがあった。
俺が仕事から帰ったら食べようと、朝から決めていたものだ。
帰宅して冷凍庫を開けると、その場所は空っぽだった。
「……食べた?」
弟は少し気まずそうにうなずいた。
悪気はなさそうだったが、それでも胸の奥がざらついた。
その様子を見ていた母が言った。
「じゃあ、買ってくるよ。すぐそこだし」
別にいい、と言いかけたが、母はもう靴を履いていた。
「すぐ戻るから」
そう言って、ドアが閉まる音が聞こえた。
しばらくして、家の中は静かになった。
テレビの音と、冷蔵庫の低い唸り声だけが響いていた。
どれくらい時間がたっただろう…
突然、家の電話が鳴った。
こんな時間に、固定電話が鳴ることは、めったにない。
画面に表示されていたのは、見覚えのない番号だった。
嫌な予感がして、すぐには出られなかった。
それでも、鳴り続ける音に耐えきれず、受話器を取った。
「……はい」
一瞬の沈黙のあと、低い男の声が聞こえた。
「こちら、警察ですが」
その言葉で、頭の中が真っ白になった。
事故があったという。
母が横断歩道を渡っているところに、車が突っ込んだらしい。
「身元を確認できる方に来ていただきたくて」
受話器を持つ手が震えていた。
弟は、何が起きたのか分からないまま、こちらを見ていた。
電話を切ったあと、家の中は異様なほど静かだった。
冷凍庫を開けると、白い霜の奥に、何もなかった。
あのアイスが入っていた場所だけが、ぽっかりと空いている。
弟が小さな声で言った。
「……俺が食べなければ」
その先の言葉は、最後まで出てこなかった。
それ以来、冷凍庫を開けるたびに思う。
あの一本のアイスが、
家族の日常と、戻れない夜の境目だったんじゃないかと。
今でも、ときどき思うのだ。
もしあのとき、
冷凍庫にアイスが残っていたら――
母は、無事に帰ってきたのだろうか…
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